先日、ムスメと食料の買い出しに行きました。ムスメにとって、買い物はとても疲れるらしいので、普段は私が一人で行っているのですが、今回は、冬物コートなどクリーニングの引き取りもしなければいけなかったので、一緒に来てくれるよう頼んだのでした。
やることが山ほどあった私は、「ああ、買い物ーめんどくさーい」と嘆きながら自転車をこいでいると、選挙カーの爆音でその日投票日だったことに気づいて「ええ、また出かけきゃいけないのー!?」と更に嘆いていました。でも、考えてみたら、ここは田舎だから自転車に荷物を積んだままでも投票できそうじゃないか、と気づいた私は、また出かけるのは嫌だと同意見のムスメに説明して、ついでに反対方向にある投票所にそのまま行くことにしたのでした。
失敗を笑えない + 他人の目を気にし過ぎる
投票所のドアをくぐり、投票まであと一歩というところで、私はハガキを持っていないことに気づいたのでした。
「あ、ハガキ持ってきてないんだった!」
と、思わずつぶやくと、すぐ近くにいた選挙要員らしきおばさんが、
「なくても、大丈夫ですよ。 個人が確認できる身分証があれば、大丈夫です」
と教えてくれたました。これぞまさしく、情報ネットワークです。ホモサピエンスがここまで発展してきた理由の1つ。困っていることを言葉にすると、誰か知っている人が情報をくれる。特にアメリカなんかだと、知らない人同士でも気軽に本当によく話すので、孤独を感じないというか、私はそういう人間らしい社会が好きなのですが、この時もそんな感じで救われたはずでした。
「よかったあ! じゃあ、戻らなくて済む。」
と言って、ムスメの方を振り向くと、ムスメが無反応なのでした。
「まさか、持ってないんじゃないよね?」
そのまさかでした。ムスメのリュックには、何も入っていないと言うのです。
え、財布も持ってきてないの?
「何も言われてないから、持ってきてるわけないじゃん!」
と、言うので、私が呆れて
「子供か!? じゃあ、戻らないと。」
私がため息交じりでそう言うと、そこにいたスタッフらしいおばさん二人が微笑み、私も微笑み返して、なんてことはないやりとりをして外に出たのですが、ムスメの表情から怒っているのがわかりました。
身分証も持っていなかったので、結局家に戻るしかなったという、ただのうっかりエピソードですが、ムスメにはそうではなかったのです。
二十歳を前にして、カバンに財布入れずに出かけるなんて、小学生かと言われても仕方ないと思うのですが、ムスメは、「子供か」と言われたことで、私を恨んでいたのでした!
「人に聞こえるような大きい声で、あんなこと言うなんて、酷い! ママせいで、恥ずかしい思いをさせられた!」
認知のポイントがズレているのです。
モトオもそうでしたが、ムスメもいつも話のポイントがズレるのは、人の目を一番に気にするこだわりからでした。彼女につきあって、一緒に戻る羽目になっている私のことなど、どこ吹く風でした。
しかも彼女は、人に笑われる=侮辱されたと極端に考えるので、私が人に聞こえる声で話すことが恥ずかしく、そのせいで、長い間恥をかかされ、迷惑を被ってきたと過去のことまで文句を言ってきました。
『そんなふうに思っていたのか!?』と、正直、腹が立ったし、ショックでした。ムスメは黙って困るだけの人なので、私のそのオープンな言動のお陰でどれだけ助けてもらったかは、すっぽり抜けていました。私は気軽に誰とでも話すことで、周りと良い関係を作ってきました。けれど、ムスメは、それが恥ずかしく、迷惑だと言うのですから、だったら勝手にしてくれって話です。
モトオも同じでしたから、私は長い間二人から言われのないことで、しょっちゅう責められていたことに気づきました。二人はいつも自分が被害者だと訴えるので、いつの間にか罪悪感を持たされるのです。それが、しょっちゅう繰り返されると、恐ろしいもので、私は知らないうちに自分自身やそれまで自分がやってきたことにまで自信がなくなっていたのでした。
学校で子供たちを観察するように、家族間での出来事も俯瞰して見ると、発達障害の人は、その特性ゆえ被害者になることもあるけれど、曲がらない性格から加害者になることもよくあるのでした。
これを避けるには、当事者の特性をよく知り、俯瞰して見ることは必要不可欠です。特性があると、間違った認知と判断はよくあることなので、事実だけを追い、常識や社会のルールを当てはめながら、何が間違っているかを一緒に判断し、お互い理解して直していくという作業ができれば理想です。
私は余計なお世話はしませんが、二人は要求が強く、私は我慢強くて、受け止め過ぎるところがあったのです。
彼女が機嫌を悪くするのは彼女の勝手と考える。
私は確かに大きい声で話す方で、松岡修造のような熱血タイプは嫌いじゃありません。けれど、ムスメとモトオは、私のようなタイプは苦手なのです。
ふたりは、何より他人の目が気になる。それはもう、本人が直そうと思わない限り、変わらないことでしょう。自分の失敗を知られることを死ぬほど嫌うのも、被害妄想が激しいのも同じです。自分がどんな人物なのか正しく自覚することが大切で、そうでなければ他者が何を言っても無駄ですから、諦めるしかないのです。
私はこの負の連鎖を断ち切りたいので、ムスメが不機嫌でいたいなら、不機嫌でいればいい、と思うようにしています。ムスメだろうとなんだろうと、彼女の機嫌は私には関係ない、と思うことを意識するようにしています。
今回のこともムスメにこう言われたので考えました。
「ママに傷つける意図がなかったとしても、実際言われた私が傷ついたと言ってるんだから、それは謝る必要があるってことじゃないの?」
昔はこれで謝っていましたが、よく考えれば、これは違うのです。
彼女を傷つける意図なく言った、と言う「子供か」は、彼女のその時の幼い行動に対して言ったことで、実際、私はそのせいで、できたはずの投票ができませんでした。つまり、我慢してつきあってあげているわけで、迷惑を被ったのは私です。
「子供か!?」は、言い換えれば、注意喚起に近く、『何も持たないのは、小さな子供みたいだから、これからは、財布にハンカチ、テッシュくらいは自分で持とうねえ』ってことです。人間ですから、大人でも忘れて何も持たないことだってあるでしょう。でも、そういう時は、そう言われても仕方ないので、失敗を受け入れ、迷惑をかけた相手に謝らなければいけないのです。
私が大きい声で言ったことで、恥をかかせられたとかいう話ではないのです。人がそれを聞いて笑ったのも、あざけったものではありませんから、勝手な思い込みです。
他人が笑うのは、すべて軽蔑やあざけりと取るのは誤りです。これは、認知の歪みからくる判断ミス。特性のある人、あるあるなのです。
『自分は笑えない。 自分は悪くない。 あの人は私のことを笑った=攻撃してきた』と取るのであれば、恐らく誰ともつきあえませんから、一人になることを覚悟しないといけないと思います。
ムスメは、この話し合いの後も長時間、無言と不機嫌オーラで、私に罪悪感を植え付けるような行動を取っていましたが、私は気にするのをやめたので、痛くも痒くもありませんでした。それにしても、これに気づくのに本当に長い時間が掛かってしまいました。
「身分証、持ってきてないの? あら、残念。 じゃ、私は投票していくから、あなたは後で一人で来てね」
正直、私がこんなふうに言えれば、無駄な衝突なく済んだかもしれません。
ムスメのことですから、やはりヘソを曲げて不機嫌になったかもしれませんが、私も無駄な注意をしなくても済んだのではないかと思います。
特性のある人はなかなか難しいので、親子といえども割り切って、ドライなつきあい方がいいように思います。
因みに、今回も長めに話し合いましたが、時間は明かに短くなった気がします。彼女がどこまで分かったか知りませんが、その後、しばらく何かにつけてぶつかってくるような言動が減ったように思いますから、無駄ではないと思います。
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